2009年1月31日土曜日

結婚式に参列する

職場のインド人の妹(”sister”なので姉か妹かわかりませんがおそらく妹)の結婚式に招待されました。
                  例によって立派な招待状です。

場所はデリー北西部下町にあるこんな感じのコミュニティーセンターのようなところの屋上です。 9時からディナー開始とのことですが特にきまりはありません。渋滞でちょっと遅れて9時15分くらいに到着。

入口はこんな感じ。受付記帳なんてものはありません。勝手に入ります。 中はビュッフェ形式の食べ物(もちろんすべてインド料理)がずらっと並んでいます。

真ん中は親族が座る場所。まわりに友人、会社関係者などが座る円卓があります。 この日は風もあってちょっと外では寒い。

 ディスコ調のインドポップスがガンガン流れていてすでに踊り始めている一団。

 花婿が来るとのことで外に出てみると花火だの爆竹だの周りはかなりうるさい。

    この花婿jは白馬ではなく自動車でやってきます。

会場の数百メーター前からバンドを引き連れてゆっくりと会場に近づいてきます。先頭は阿波踊りのように踊っている花婿の友人と思われる一団、そのあといろんな人が歩いてきます。

会場の入り口で花嫁側が花婿側にガーランドの首飾りを送ります。私も花嫁側として渡されたのですが誰にあげればいいのかよくわからなかったので仲間のインド人と一緒に結局渡しそびれてしまいました。

      まずは女性から、このあと男性に花嫁側から首飾りの贈呈です。

いよいよ屋上の会場に到着。ここではじめて新郎新婦一緒の儀式が始ります。この前に数日かけて新郎、新婦の家で延々と儀式をやるのだそうです。



参列者全員とそれぞれ写真を撮ります。このときプレゼントを花婿側に渡し横にある台に飾られます。当然大きいものが見栄えがしますので桃太郎が鬼退治から帰った時のような大きな箱を持ってきます。全員と撮影するので撮り終わるまで3時間くらいはかかるだろうと言ってました。我々ももちろん挨拶と記念撮影をしました。


新郎新婦の兄弟です。


と、延々と挨拶、プレゼント贈呈、写真撮影をやっているそばでまた延々と踊り狂っている一団です。このあとビュッフェ形式のディナーを食べて各自勝手に帰ります。

我々は11時半に帰りましたが朝の4時まで宴会は続いたそうです。挨拶、スピーチ、余興などは一切なし。このあとヒンズー教の儀式があったそうですがこの日も含めて4日間かけたそうです。田舎では15日間というのもあるそうです。

”新郎は結婚には忍耐というものが必要だということを学ぶ、そして二度とこんな式なんてものはしたくないと思わせるのが狙いだ”とあるインド男性のお言葉。

会社の南インド出身の人と一緒だったのですが、南インドと結婚式のやり方がかなり違うそうです。南では午前中からお昼に行うのだとか。彼も面白いと珍しがっていました。

大事なこと:今回は新郎新婦の家族とも敬虔なヒンズー教徒このノリでお酒は一滴も出されていません。




2009年1月26日月曜日

リパブリックデー(共和国記念日)

1月26日はリパブリックデー(共和国記念日)の祝日。朝はまた霧が出ましたが10時ころには晴れ渡りいい天気になりました。インドは1947年8月15日にイギリスから独立したのですが憲法が制定されたのは2年半後の1月26日なのだそうです。 この間はいったいどうなっていたのでしょう?

この日は市内中心のデリー門からラールキラーという砦までパレードが大々的に行われます。昨日パキスタンから来たテロリストが二人射殺されたというニュースもあり市内は厳重な警戒態勢。とても現場に見に行くことはできませんがテレビで生中継をやっていました。

今年から配備されてたAWCS、もちろん張りぼて。


ミサイル、これは本物? インドは核保有国。




なんとラクダ部隊。

さらにラクダに乗った軍楽隊。


軍関係の後は各地の山車も続きます。


25日の新聞に出ていたドライデー(禁酒日)の告知。 酒屋は閉まりレストラン、バーでもお酒は出しません。最もこの近所は酒屋だけでなく大半の店が閉まっていました。

2009年1月24日土曜日

ゴアで生まれて初めてアラビア海に触れる

デリーから飛行機で2時間半、南インドのゴアに行ってきました。行ってきたといってもお昼頃デリー発の飛行機で夕方にゴアついて次の日のお昼にはホテルを出て夕方にはデリーに帰ってくるという強行軍。

気温は昼間は32,3度。完全に真夏です。空港から海岸のホテルまでの道沿いは鮮やかな原色で塗られた洋風の家があちこちにあり、ヤシの木陰の間に十字架が見えます。残念ながら市内見物はできず。ホテルについてチェックイン後すぐ裏手の海岸に駆けつけたらなんとかアラビア海に沈む夕日を拝むことができました。なにせデリーでは海に全く縁がないので久し振りの海との対面。なにかほっとします

真っ白な砂浜がずっと続いています。あまり人は多くありません。

浜辺で漁師がずっと夕陽を眺めていました。


野良犬が人懐っこく寄ってきます。毎日おいしいシーフードを食べているのでしょう。毛並みもつやつやです。近くにビーチバーがあるのでビールも飲んでるかもしれない。埃っぽいところで毛並みも悪い(もちろんビールなんかにはありつけない)デリーの野良犬から比べるとこんなリゾートの一等地に住んでいるとは贅沢な奴らです。替ってもらいたいもんです。


残念なのはシーフードカレーがなかったこと。デリーから来たインド人も楽しみにしていたのにデリーの食事と変わらなかったとこぼしていました。またじっくりと来てみたいところです。

2009年1月18日日曜日

偽物館でインド人の交渉力に恐れ入る



万里の長城、オリンピック公園のあと”何か買い物をしたい”というのもごもっとも。北京でまず観光客が買い物に行くところといえば中心街にある秀水街です。私は勝手に”偽物館”と名付けていますが靴、カバン、衣服、時計、宝石の小さな店が数えきれない程あって偽物であふれています。 http://www.silkstreet.cc/templet/default/

ここにインド人を連れて行ったのですが印中価格交渉対決を見せつけられました。

Round1
まずは軽くおもちゃの室内ラジコンヘリコプター、私も去年ひとつこの類を王府井のデパートで買って300元はしました。どうやら奥さんにプレゼントして出張中に遊んでもらって”いつも家にいない!”という愚痴をかわそうという魂胆。私のヘリはボディーも発砲プラスチックでよくみるとちゃっちいのですが最新のものはちゃんとしたプラスチック製でかっこいい、さらにライトまでついている! 売り場のお姉ちゃんの400元の言い値からあっという間に80元に値切ってしまいました。最後は”じゃいらない”といって立ち去る作戦です。まずはインドの優勢勝ち。
                  これは私の持っているヘリ

Round2
そのあと時計売り場、まず腕にしている時計をお姉ちゃんに見せて

インド人:”これは本物か?”
お姉ちゃん:”とても良くできてるけど偽物ね”
インド人:(心臓のあたりを抑えて売り場の前で倒れかかる)”おい、発作がおきそうだ!これはだな、シンガポールの正真正銘の正規代理店で買ったんだ。007モデルで世界に???個しかないうちのひとつだぞ!!”
とかなんとかお姉ちゃんと仲良くなりながら”とにかくいい(偽物)ものを見せろ”と要求。

その後延々とあれを見せろ、これを見せろと次から次へと持ってこさせて3個ほど選択。”これからだぞ、交渉は”と小さな声で私に言います。

この時点でお姉ちゃんはもうへとへと、”あたし食事してないんだから。おなかすいたよ!”と中国語で愚痴を言い出し始めました。

結局なんだかんだと言いながら最初の言い値の2-3割で3個購入。ここもインドの優勢勝ち。(ただしこの売り場のお姉ちゃんからさっき買ったヘリコプターは50元にまでなることがわかりましたがほとんど時間をかけなかったことを考慮して優勢勝ちに変わりなし)

Round3
宝石売り場で真珠を物色。奥さんへの贈り物らしい。粘りましたがここは交渉決裂。中国も負けてはいない。中国の勝ち。

Round4
工芸品売り場で値切る。インドの優勢勝ちで数点購入。

Round3のリターンマッチ
もう一回宝石売り場に行って”やはりだめか?”と再度念押すもお姉ちゃんきっぱりと断る。やはりここは中国強し。

Round5
一階のスーツ売り場でアルマーニを物色。いきなりお姉ちゃんの言い値の10分の1で交渉開始。かなり時間(20分くらい)をかけましたがお互い譲らず。もともと本人買うつもりはなかったのでここは引き分けというところでしょうか。

ということでインドの三勝一敗一引分けが私のジャッジです。

気づいたのですがこのインド人絶えず電話をかけたりメールを打っていました。最後のスーツはこのあたりでスーツを実際に買ったインド人から最新価格情報を仕入れていたらしくこちらのいい値はその購入価格だったそうです。このあたりのグローバルな情報網がインド人の強みなのかもしれません。

結論:インド人曰く”ここは言い値の10分の1だ、でも宝石だけはそうはいかなかった”

2009年1月16日金曜日

万里の長城でインド人と震え上がる

久しぶりの北京です。今回はインド人といっしょ。予定していた打ち合わせが急きょ中止。どこか行きたいかと聞いたら”万里の長城!”と答えました。寒いからやめておいたほうがいいと思うよ、と言いましたが”大丈夫、絶対行く”と強く主張。そこまで言うならばと北京から一番近い八達嶺に半日で行くことにしました。


朝一番で天気はいいですが、とにかく寒い。会議しか想定していない服装、とても歩き回れるものではありません。ロープウェーの駅から周辺を少し歩いただけで早々に引き返してきました。北京市内で夜はマイナス5~6度まで下がっていますからのあたりではマイナス10度くらいになっていてもおかしくありません。それに風が吹き付けるので景色に感激をしても寒さには耐えきれない。周りを見ると8割位が韓国人。中国人の姿が見当たらない。この時期にここに来るのはもの好きとい言わざるを得ません。
ふるえながらも”おおすごい”と感激。女性のほうは高いゴンドラに乗るのが初めてで降りてくるときは寒さ+恐怖で完全に体が固まっていました。

あまりの寒さにすぐ降りてきてしまったので時間がまだある。じゃあ、オリンピック会場にも連れてってくれということで市内帰りにオリンピック公園に。

クリスマスツリーがいっぱい飾ってあってきれいです。鳥の巣の中に入ってここでも"Amazing!"と大感激。


すっかり体が凍えましたが十分満足してもらったようです。

2009年1月10日土曜日

建築方法

デリーには新しい高層ビルはほとんどありません。おそらくインフラが追い付かないのでそんなものをやたら作ったら停電、断水で使い物にならないから規制されているのでしょう

ほとんどのアパートや住まいは3階から5階建て。よく工事をしているのをみかけますが最初は壊しているのかと思ったら建築中だったことがわかりびっくり。今日も近所を歩いていたら二軒ほど建築現場に遭遇。

まずは機械類がほとんど見当たりません。見事なまでにすべて手作りです。コンクリートミキサー、クレーンなどというものはありません。レンガを一個づつ積み上げていきます。上の階がそろったら材木を間に立てて乾くのを待つようです。



壁の薄さたるや下の写真の通りレンガ一枚です。あるオフィスの三階に大型複写機を入れようとしたらエレベータもないし階段が狭くて運び込めない。どうしたかというと三階の壁を壊してクレーンで運び込んだそうです。確かにこの壁ならたやすくぶち破れるでしょうが構造的に大丈夫なのでしょうか?



建築現場で働くのは女性が多く頭の上にレンガを乗せてゆっくり歩いて運びます。工事現場に住み込みで子供も一緒に暮らしているのが普通のようです。こういう作り方ですから見ていてもなかなか工事は進みません。

煉瓦の上から壁を塗ってきれいな金属性の化粧版とハーフミラーをつければ一見立派なオフィスに見えます。でも中身は全部こうやって作っているわけです。

2009年1月3日土曜日

デリー名物濃霧

日本のような年末年始の気分は全くありません。あっさりと年が変わりました。

年末からずっとデリーは霧の日が多く特に今日は昼になっても霧がおさまらず気温も10度を超えません。今朝も起きると窓の外はこんな感じ。



車で走ると霧の濃いところとそうでないところとかなり差があります。市内を流れるヤムナ側の近くになるとほとんど前が見えない。場所によっては3メートル先も見えません。



オートリキシャも高速自動車専用道路を走るのですが多くはライトをつけないので非常に危険。



それでなくてもみんな乱暴な運転をしているのでこの状態で事故が起きないのが不思議。毎日新聞は飛行機、列車の遅れと交通事故のニュースです。



デリー空港は今シーズンからCAT3Aという視界が悪くても離着陸できる新システムを導入したのですが、安い国内線ではこれの操縦資格を持っているパイロットが少なくて使用されることが少ないそうです。航空会社がパイロットを教育するのをケチっているとのこと。年に数回あるかないかのために高い教育費を払うくらいなら欠航させてしまったほうが得という勘定らしい。それでなくても狭くて居心地の最悪のターミナルで待たされる客はたまったものではありません。